//「だから僕は、打席に立ち続ける」――フェンシング・太田雄貴が挑む組織改革

「だから僕は、打席に立ち続ける」――フェンシング・太田雄貴が挑む組織改革

2017年に31歳の若さで日本フェンシング協会会長へ就任した太田雄貴さん。彼が取り組む組織改革によって、日本におけるフェンシングのイメージは大きく変わろうとしている。若きチェンジリーダーはなぜ、スポーツ界にインパクトをもたらすことができるのだろうか。挑戦を続けるその信念と価値観に迫る。(前編はこちら)

競技生活で身につけたPDCA思考

2012年のロンドン五輪では日本史上初となる団体銀メダルを獲得したものの、太田さんはその後、東京五輪の招致活動に向けて一時現役を引退する。2013年のIOC総会でプレゼンを行なったことも象徴的だったが、彼がその環境で得たのはビジネスパーソンとしてのマインドセットだった。さまざまな人と出会い、意見を交わす中で見えてきたのは、五輪招致を実現するために組織としてどう動いていくのか、そしてその中で自分がどういう役割を果たすべきなのか、ということ。その問いから自ら行動を起こす。

「『次はここで』『その次はこう喋ってください』と指示されるままでもよかったかもしれません。でも、東京で五輪を開催するというミッションに対して、もっと自分がやれることはあるんじゃないか、と。それで、バッハIOC会長(当時副会長)へ手紙を書いて会いに行ったり、ロビー活動をしたり、思いつく限りやってみた。そこでどれだけ精一杯やれるかどうかが重要だと思っていたんです」。結果として、太田さんは招致チームへ大きく貢献。見事2020年東京五輪決定を勝ち取った後、また新たな気持ちで競技へ復帰することを決める。

「歳を重ねるうち、フェンシングへの取り組み方が変わってきたんです。大会へ向けて仮説を立てて、ストラテジー(戦略)とタクティックス(戦術)を用意して、それを実行できるだけの準備をして、『今回はこのスキルで臨もう』と大会へ挑む。それがハマると面白いし、ハマらなければ『これを変えてみよう』みたいな。トライアンドエラーを繰り返すことに面白さを見いだすようになったんです」

その思考法はビジネスパーソンと重なるところがある。フェンシングは「フィジカル・チェス」と言われるように、心理戦や頭脳戦が勝敗を分けると言っても過言ではない。間合いをどう取り、いかに詰めるか。瞬時に判断して、身体と連動させる――。そうやってトレーニングや実戦の場で、つねに高速でPDCAサイクルを回しつづけているのだ。

実際、世界で活躍するビジネスパーソンには、フェンシング経験者が数多く存在する。 IOC会長のトーマス・バッハは1976年モントリオール五輪で男子フルーレ団体金メダルを獲得し、第9代世界銀行総裁のジェームズ・ウォルフェンソンは1956年メルボルン五輪に出場。Facebookを創業したマーク・ザッカーバーグも高校時代、校内のフェンシングチームのキャプテンを務めていた。「きっとフェンシング経験者は、どの職場でも活躍できるんじゃないかな。僕自身も先人たちの礎に勇気づけられますし、自信を持って進んでいけるんです」

最上位理念を「金メダル」から「感動」に

現役復帰した太田さんは、2014年アジア大会の男子フルーレ団体優勝に貢献し、2015年の世界選手権では男子フルーレ個人初優勝を勝ち取った。そして翌年リオデジャネイロ五輪に出場し、初戦敗退後に現役引退を表明した。競技者にとっては大きなターニングポイントだが、悔いはなかったという。「やることはやったなぁ、と。もちろん、東京五輪には出たいですよ。でも若手のチャンスを奪ってまで僕が出る、というのはなかった。下の世代に最高のパスを渡せたと思うんです」

いまは自身の会社を経営しながら、日本フェンシング協会会長として、組織改革と競技振興、強化育成に取り組む日々だ。太田さんが会長へ就任してから、協会では「フェンシングの先を、感動の先を生む」というビジョンを掲げ、その最上位理念を、フェンシングを通して感動体験を提供することとしている。「『金メダルを獲る』というのは、あくまで強化部門の目的にすぎない。競技を観た人が感動し、フェンシングという競技に興味を持って、月1回でもいいからやってみようという人を増やしていく。そうやって、会場をお客様でいっぱいにしたり、観る人に感動してもらえたりすることに、喜びを覚えるんです」

これまで選手強化を最大の目的としてきた協会にとって、大きな意識改革ではあるが、早くもその効果が現れてきている。クリエーターとのコラボレーションや、全国各地での競技振興イベント、2018年の全日本選手権決勝は東京グローブ座で開催し、チケットは既に完売。現役選手主導のクラウドファンディングによるファンイベント開催など、さまざまな取り組みが行われている。

2018年12月に行われる全日本選手権のポスターは、撮影を蜷川実花氏、アートディレクションを秋山具義氏が担当した

「僕が一切関わっていないのに、自発的に『こんなことをしたい』という動きが出てきているんです。いくら僕ひとりが頑張っても、『太田がいなくなったら、できなくなっちゃったね』というのでは、意味がない。組織を健全化して、みんなを巻き込んで、多くのファンを獲得することができたら、今度は他のスポーツにも横展開できるようなモデルにしていきたい。だから、なるべく単独ではなくチームで動くようにしているんです」

人生にわかりやすいゴールなんてない

太田さんと同世代の多くは、会社でも少しずつリーダーや管理職を務めるようになり、後輩や部下が増える一方、頭の硬い上司や保守的な組織のあり方に頭を悩ます人も少なくないだろう。なぜ太田さんは若くして、チェンジリーダーとして組織改革を進めることができるのだろうか。そんな問いに太田さんは、こう答える。「実は僕、これから十何年も会長を務めようとは思っていないんです。MAXでも4、5年かな、と。だからこそ、会長を務める間に成し遂げなければならないことがある。幸い、唯一決裁権のあるポジションなので、思いきってやらせてもらっています。やっぱり、裁量を持たせてもらえないと、改革は厳しい。会社勤めはそこが難しいところだな、とは思います」

そのうえで太田さんは、「うまくいかなければ、辞めたっていい」と助言する。「愚痴る時間がいちばんもったいないな、って。小さな組織単位から裁量を持てるようにして、それが難しいなら、辞めて自分で起業したっていい。昔は終身雇用という大前提があったけど、いまはそういう時代でもない。『自分がいま登っている山はエベレストなんだ』って思うと、つらいじゃないですか。だって、『人生でこの山以上に高い山を登ることは二度とない』と思うと、身動きが取れないから。だから、いま登ってるのは“高尾山”で、『他にもいくらでも山がある』と思えたほうが、『次は浅間山』『その次は富士山』と挑戦できるし、向上心が持てるんじゃないでしょうか」

淡々としながらも、どこか熱を帯びた口調なのは、太田さん自身がまさに常に向上心を持ち、トライアンドエラーを繰り返してきたからだろう。だからこそ数々の実績を残してきた。そんな彼が見据える次なるビジョンとは、どういったものなのだろうか。

「僕、ベンチャー企業の友人が多くて、ライフネット生命の岩瀬大輔さん、ヤフーの小澤隆生さん、グリーの田中良和さん……。彼らと毎週のように話していると、やっぱり影響を受けますよね。だから、何かビジネスはやりたいと思っているんですが、スポーツ界でもまだまだ成し遂げたいことはたくさんあって……。人生にわかりやすいゴールなんて、ないですよね。五輪はわかりやすく用意された“宝物”みたいなものだったけど、これからはどんなに壮大なビジョンを掲げても、明確なゴールはない。だからもう、打席に立つしかないし、とりあえずやってみるしかない。そうしなければ見えてこないものがあると思うんです」

プロフィール太田雄貴(おおたゆうき)
1985年滋賀県生まれ。小学校3年からフェンシングを始め、高校では史上初のインターハイ3連覇を達成。高校2年で全日本選手権優勝。2008年北京オリンピックにてフルーレ個人銀メダル獲得。2012年ロンドンオリンピックにてフルーレ団体銀メダル獲得。2015年フェンシング世界選手権では日本史上初となる個人優勝を果たすなど、数多くの大会で成績を残す。2016年には日本人初となる国際フェンシング連盟理事に就任し、同年に現役引退。2017年8月、日本フェンシング協会会長に就任。2020年の東京オリンピックに向けて、日本の顔として日本フェンシング界を牽引していく

取材・文 大矢幸世
撮影 北山宏一

By |2018-12-11T18:38:47+00:00November 9th, 2018|Categories: Interview|0 Comments

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