//「迷ったら、キツいほうを選ぶ」ーーフェンシング・太田雄貴の仕事観

「迷ったら、キツいほうを選ぶ」ーーフェンシング・太田雄貴の仕事観

選手として輝かしい実績を残し、日本フェンシング界を牽引してきた太田雄貴さん。2017年に31歳の若さで日本フェンシング協会会長への就任を発表し、驚きをもって受け入れられた。彼はいま、何に取り組もうとしているのか。そしてその原点にはどんなキャリア観があるのだろうか。常にチャレンジを続けてきた彼の足跡から紐解いていく。

31歳で日本フェンシング協会会長に就任

「いいんだか悪いんだかわからないけど、僕にはクセがあるんですよ。何か分かれ道に差し掛かったとき、キツいほうを選ぶ。いやぁ……悪いクセですね(笑)」。2008年の北京五輪で日本のフェンシング界に初のメダルをもたらし、2012年のロンドン五輪でも日本史上初の団体銀メダル獲得に大きく貢献。フェンシング選手として輝かしい実績を残してきた太田雄貴さんは、2017年8月に日本フェンシング協会会長に就任したときのことを、こう振り返る。前年に現役引退を表明し、同年11月に国際フェンシング連盟理事に就任してから1年足らずのことだった。

一般的に名誉職である競技団体の会長を務めるのは、過去に現役選手、指導者として活躍した人や、経営から一線を退いた実業家、過去に国務大臣を務めた人など、いわゆる「各界の重鎮」とされる人が多い。太田さんは就任当時、31歳。異例と言える大抜擢だった。「こうして話題にしてもらえるのは、僕が“逆張り”して、みんながやろうとしないことをやっているから。僕は自分を追い込んだほうが成果を上げられるんですよ。ある種アスリート気質が抜けないというか、プレッシャーを受けるのが好きなんです。だって『プレッシャーがない』ってつまり、『期待されてない』ってこと。それだけ自分がインパクトをもたらせていない、ってことじゃないですか。それはしんどいなぁ、って」

会長に就任した瞬間に決めたのは、「できる限り手足を動かすこと」だったという。「やれることをやり尽くそうと思った。ただ考えてるだけの時間には価値がなくて、どれだけバットを振れるか。ヒットも出るだろうけど、三振もあるかもしれない。でもその失敗は織りこみ済みなんです。でなきゃ、ホームランも打てませんからね」

副業・兼業限定でプロフェッショナル人材を公募

太田さんが最初に手がけたのは、職員の職務内容や会長の役割、協会の意義・目的などを見直すことだった。フェンシングをわかっている人でなければ会長は務まらないのか、協会は選手強化を目的とすべきなのか、そもそもスポーツ界はどうあるべきなのか……と、一つひとつの問いを俎上に載せて、整理していった。すると、競技経験や知識がなければ務まらないポジションは、全体の3割ほどと判明したという。

「経営やマネジメント、マーケティングといった職種は専門性が必要だけど、それを競技経験者がやる必要はない。結局、フェンシング協会はいまあるリソースで役割分担をしているに過ぎなかったんです。そうすると当然、どうしても弱みが出てくる。強化はうまくいくかもしれないけど、資金調達やファンコミュニティが弱い、集客がうまくいかずに観客席がガラガラ……とかね。それなら、僕が“顔”になって、外部から面白い人を引っ張ってこよう、と。組織の強さは『人材流動性の高さ』に表れると考えているんです」

そうして行なったのが、「副業・兼業限定の専門人材の公募」だ。協会として予算は限られているが、専門性の高い人材が必要。一方で世の中の流れとして、パラレルキャリアを志向する人が増え、大手企業でも副業解禁する会社が現れるなど、「新たな働き方」を求めるニーズがある。「少しずつ『フェンシングってカッコいい』とか、『フェンシングと関わると面白そうだぞ』とは思ってもらえるようになってきた。そこから今度は、本業とは別の名刺を持って、スポーツと関われば人生が豊かになると思ってもらえると、お互いに道が拓けてくるはず。そうやって一つずつ取り組んでいるんです」

足りないところと向き合うことから、キャリアがはじまった

さながらベンチャー企業の若手経営者のように、自らの立ち位置と率いる組織を論理的に語る太田さんだが、その客観性とビジネスマインドはどうやって身につけたのだろうか。太田さんは、「そもそも僕のキャリアが、『足りないところと向き合う』ところからはじまった」と振り返る。

「両親がスポーツをしていたわけではないし、どちらも身長はそう高くないから、ある程度自分の身長も見えてくる。中3のときにはじめて国際大会に出て負けた相手が、同い年で185cmあったんですよ。そうなるともう、足りてないことを前提にどう戦うか、という考え方になる。身体的なハンディキャップを前提に自分の武器をどう備えたら世界と勝負できるのか……。競技を通してつねに考えるクセをつけられたことが、僕にとっては大きかったですね」

太田さんが小学生でフェンシングをはじめたのは、父親の強い希望によるものだったという。「フェンシングが好きというより、勝てるから好きだったんだと思います。それこそもう、承認欲求の塊ですよ(笑)。試合で勝てば両親が笑顔になるし、おじいちゃん、おばあちゃんも褒めてくれる。褒められたいからやっていたようなものです」

その後、史上初のインターハイ3連覇や史上最年少(高2)での全日本選手権優勝など次々に記録を塗り替え、2004年に若干18歳でアテネ五輪に出場。だが、あえなく3回戦敗退の9位に終わる。「メダルを獲らずに帰ってきたら、出場していないも同然の扱いで。水泳の北島康介さんや柔道の野村忠宏さんなどメダリストの皆さんが注目されているのを横目に、心の底からうらやましかった。そのとき、『メダルを獲って人生を変えたい』と強く願うようになったんです」

その悔しさをバネに、2006年のアジア大会では男子フルーレ個人で28年ぶりとなる金メダルを獲得。そして2008年、北京五輪で日本人として初の決勝戦に出場。ドイツのクライブリンク選手に敗れたものの、日本史上初の銀メダルを獲得した。日本中は鮮烈な印象を残した若き騎士に、熱狂的な声援を送った。メダル獲得直後のインタビューで「就職先募集中」と答えたことも話題となり、帰国後間もなく数々のメディアに登場。まさに「人生が変わる」ほどの注目を浴びた。

撮影:竹見脩吾

「メダルを獲ったことで期待以上だったのは、一気に有名人になれたこと。会いたい人にも会えるようになったし、承認欲求を満たして自己実現するには、格好の材料だったわけです」。だが、期待していたほど変わらなかったのは、フェンシングの認知度や普及状況だったという。「北京とロンドン五輪を経て実感したのは、競技の普及や選手育成は『メダル獲得』のような最大瞬間風速では、どうにもならないこと。テレビで観て、『やってみたい』と思っても、家の近くにフェンシングクラブがなければ、機会損失してしまう。いかに敷居を下げつつ、人気を獲得していくか。まだまだ改善する余地があるなと感じたんです」
(後編はこちら)

プロフィール太田雄貴(おおたゆうき)
1985年滋賀県生まれ。小学校3年からフェンシングを始め、高校では史上初のインターハイ3連覇を達成。高校2年で全日本選手権優勝。2008年北京オリンピックにてフルーレ個人銀メダル獲得。2012年ロンドンオリンピックにてフルーレ団体銀メダル獲得。2015年フェンシング世界選手権では日本史上初となる個人優勝を果たすなど、数多くの大会で成績を残す。2016年には日本人初となる国際フェンシング連盟理事に就任し、同年に現役引退。2017年8月、日本フェンシング協会会長に就任。2020年の東京オリンピックに向けて、日本の顔として日本フェンシング界を牽引していく

取材・文 大矢幸世
撮影 北山宏一

By |2018-12-11T18:39:26+00:00November 9th, 2018|Categories: Interview|0 Comments

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