//「日本人として、東北のためにできることを」ーー世界を股にかける元証券マンが立ち上げた「みんなで楽しめるフードマラソン大会」

「日本人として、東北のためにできることを」ーー世界を股にかける元証券マンが立ち上げた「みんなで楽しめるフードマラソン大会」

東北復興支援のマラソン大会として年々認知度を上げている「東北風土マラソン&フェスティバル」。スピードより楽しむことに重きを置いたこのイベントは、東北各地の名産に出会える場所としても人気を博している。

この大会を企画、成功に導いた中心となったのが、元証券マンで、現在、IT系ベンチャーを経営する竹川隆司さんだ。安泰の生活を捨てベンチャーの道を選び、マラソン大会の発起人として、その立ち上げのために拠点をアメリカから日本に移す。次々チャレンジを続ける竹川さんは、それぞれの決断のとき、何を思い、何を拠り所にしたのか。原点ともいえる高校時代から今に至る道のりを探った。

略歴2000年 国際基督教大学卒業、野村證券入社
2006年 ハーバード・ビジネス・スクールでMBA取得、帰国後、野村ロンドンに赴任
2008年 退職。ベンチャー企業の経営
2011年 朝日ネット入社。米国子会社Asahi Net International. Inc.を設立、教育支援システム事業のグローバル展開を推進。東北でのマラソン大会開催に動き出す
2014年 東北風土マラソン&フェスティバル第1回開催。一般社団法人インパクトジャパンのエグゼクティブ・ディレクターとして東北での起業家育成・支援プロジェクトを主導
2016年 zero to one設立、ITを活用した教育サービスなどを提供
震災直後の日本を離れる後ろめたさ

故国を想う気持ちは海外にいるほどに強くなるものなのかもしれない。現在、ITを活用した教育サービスなどを提供する会社「zero to one」の代表取締役CEOをつとめる竹川隆司さんは、仕事でアメリカと日本を行き来していた2011年、東京で東日本大震災に遭遇した。翌月にアメリカでの新会社設立を控えていた竹川さんは、震災の3日後、後ろめたさを感じながら、混乱真っ只中の日本を離れる。アメリカで待っていたのは、日本を気遣う海外の人々の反応だった。

タクシーに乗ればドライバーに心配され、ホテルではドアマンに声をかけられる。日本への思いが募った。「日本人として」何かしなくてはいけないーー。そんな思いを抱いた竹川さんは、その後、日本に帰国する度に東北復興支援へ熱い思いを持つ同志と語り合う。そこで徐々に固まっていったのが、マラソン大会のアイデアだった。

竹川さんたちがモデルとしたのは、「メドックマラソン」。これは、フランスのメドック地方で35年ほど前から行われているフルマラソンの大会で、ワインや料理を楽しみながら走る大会として国内外に多くのファンを持つ。特徴的なのは、参加者だけでなく、その家族や友人も大会を訪れることだ。前夜にはパスタパーティがあり、大会当日は、クロワッサン、生ガキ、ステーキ、アイスクリーム、そしてワインと、フルマラソンでフルコースが楽しめる。レース後にはシャトーツアーなどが数々催行され、週末を通して参加者も同行者も楽しめる仕組みだ。

「目指したのは、東北の一地方ではなく、6県すべてを盛り上げる大会。ランナーだけではなく家族や友人も、そして地元の人たちも一緒に楽しんでいるメドックマラソンは理想でした」と竹川さん。

市民ランナーでもある竹川さんは、2012年、仲間とともに自らメドックマラソンに参加。「世界一楽しい大会」であることを確信する。急遽メールでアポイントを取り、メドックマラソンの実行委員長との会合の場を設けた。そして、東北で復興支援として、「メドックマラソンのような大会を催したい」という夢を熱く伝えると、「メドックマラソンとして全面的に支援する」との快諾を得た。

メドックマラソンのプレジデントFABRE氏と。初回の大会へ駆けつけてく

地元の論理に気づかなかった自らを反省

一気に開催へ向けて動き出したマラソン大会。しかし、竹川さんはもちろんマラソン大会主催などは未経験。手探りながら有志で活動を始めると、大手の協賛企業を募り、助成金を1円も受け取らずに運営する段取りをつけた。開催地を宮城県登米市に決めたのは、南三陸、気仙沼、石巻など主要地から1時間圏内に位置すること、「長沼フートピア」という広い公園があったことによる。くしくもそこは震災当時、消防や警察など支援の拠点だった。ロゴデザインを始めビジュアルを用意し、公式ウェブサイトを立ち上げ、PR体制も整えた。

こうして万事整えたつもりが、やはり、そこはマラソン大会の素人。そう簡単に、地元行政も警察もそろってOKとはいかなかった。ビジネスとして実現可能なプランを作ったつもりだったが、肝心の地元関係者から開催への賛同がすぐには得られなかったのだ。自分たちの無力さを痛感し、そのまま仲間と、地元の居酒屋で泣きごとを言った。もうあきらめたほうがいいのか、とさえ思った。

ただ、ここで奇跡が起きる。二次会で寄ったお店にたまたま居合わせた地元の若者が、心強いサポーターとなったのだ。竹川さんたちが画策していたマラソンのことを初めて知った若者は、竹川さんたちに「俺たちも地元を盛り上げたいと思っている。そのマラソン大会、ぜひ実現したい。がんばってほしい」と手を握ってきた。その言葉に俄然勇気が湧いた。もう一度やろうと奮い立った。あの若者との偶然の出会いがなかったら、どうなっていたかはわからないという。

竹川さんたちは関係者一人ひとりに会って、直接気持ちを伝えていった。道路使用の許可を得るため警察にも日参した。竹川さんが培ってきた「ビジネスの手法」だけではあきらかに足りなかった。当然ながら、先祖代々の土地を守ってきた人たちは、これからもそこで暮らしていく。外から来た「よそもの」が、いきなり新しいイベント、しかもフルマラソン大会のような大きな企画を持ってきたところで、それが根付くのか、継続していくのかと心配するのも無理はない。あくまで主役は地元のひとたちなのだ。竹川さんたちは、地元の方々の賛同を得るために、時間をかけて気持ちを伝えていった。

こうして2014年4月、ついに「東北風土マラソン&フェスティバル」開催に漕ぎ着けた。参加者は1300人。コースに設けられたエイドステーションでは、東北各地の名物が供され、レース後に開催された日本酒やご当地グルメのフェスティバルでは多くの人が楽しんだ。「人々が喜んでいるのを見るのが何より嬉しかった」と竹川さん。大会は年々規模を拡大し、今年行われた第5回では、参加者6800人、来場者5万人を数えた。コース周辺の地元の方々も、数百人規模のボランティアとして大会を支えてくれている。

「携わってくれる人たちがみんな、「自分たちの大会」として考えてくれるようになったこと。日本全国、世界から来た人が、東北の生産物を讃えてくださることが本当に嬉しいんです。それが、地元の生産者の皆さんのやる気につながってくれたらと願っています」と笑顔で語る竹川さん。「地元の方々と一緒に、息の長い大会にしていきたい」と、先を見据える。

決断するのは風呂の中、決め手はいつも直感

それにしても、ここまでなぜがんばれるのか。
そもそも竹川さんは、東北風土マラソン開催を企てる以前からずっとチャレンジャーだった。大学卒業後の就職先は、「最も環境の厳しい場所」「自分が最も成長できる場所」として野村證券を選んだ。念願のMBA取得を果たして帰国するとロンドンに赴任、エリートコースを歩み続けた。しかし、ここで竹川さんは退職、傍目には冒険に見える道へと進路を変える。

「世界を股にかけて働く。大学時代に描いていた自分の姿に近づいている実感はありましたが、逆に、日本とロンドンをビジネスクラスで往復する立場に甘んじていていいのかと不安になりました」

会社に留まることで描ける将来、日本に与えられるインパクト、生活の変化など、竹川さんはさまざまな要素を天秤にかけ、その結果、自らで新しい価値を生み出すことを選んだ。進むべき道に迷ったとき、最終的な決め手は常に「仲間」と「直感」だという。大切な決断はいつも風呂の中で行う。

こうして竹川さんは、友人が立ち上げたベンチャー企業の経営に参画。その後、仕事を通じて縁のできた朝日ネットに入社し、米国法人を立ち上げる。震災に遭ったのは、ちょうどこの頃だった。

変化の早い世界では、挑戦しないリスクのほうが大きい

「世界の変化は早い。考えに考えて進路を決めたとしても、その間に世界はすごいスピードで変わっていきます。絵に描いた通りにはいきません。こんな時代には、挑戦しないリスクのほうが大きいと思う。実際、転職してからのほうが『生きている感じ』がしています」

金融、IT、教育、復興支援と、竹川さんが手がけるものは、一見すると一貫性がないようにも思えるが、実は根本ではしっかりつながっている。核となるものができたきっかけは、高校時代に読んだ一冊の本だった。そこで「日本のODAは途上国の役に立ってない」の一節に触れ、竹川さんの正義心に火がついた。以来、「日本が途上国にできることをしたい」という思いが、ぶれない軸となったのである。証券会社時代、アジア開発銀行の債券やアジア企業の株式が出ると、いつも以上に力を入れた。現在、手がけるオンライン教育のビジネスも、最終的には途上国の教育につなげたいと考えている。

竹川さんの行動指針は「自分が関わってこそ、新しい価値や大きなインパクト生み出せることをやりたい」。チャレンジしたいことは次から次へと湧いてくると言う。その未来にはどんな風景が広がっているのか、実に楽しみだ。しかし、誰よりいちばん楽しみにしているのは、きっと竹川さん本人に違いない。

プロフィール竹川隆司。1977年、神奈川県横須賀市に生まれ、米軍基地の近くでアメリカ文化を身近に感じながら育つ。翻訳者である母が英会話教室をしていたこともあり、英語も身近だった。国際基督教大学時代のカナダ、アメリカへ留学で視野は完全に世界に開かれる。チャレンジしたいことは多々。

取材・文 佐藤淳子
編集 REGION
写真 高梨光司

By |2018-08-03T16:56:50+00:00August 1st, 2018|Categories: Interview|0 Comments

Leave A Comment

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.