//二度の震災を経て実感した「学ぶこと」の意義ー福島へと駆り立てた子どもたちへの思い

二度の震災を経て実感した「学ぶこと」の意義ー福島へと駆り立てた子どもたちへの思い

2014年より福島県で高校生の学びを支援する「ふくしま学びのネットワーク」を運営する前川直哉さん。多様性尊重のための市民団体「ダイバーシティふくしま」や、コミュニティスペース運営にも参加するなど、福島の若者に寄り添いながら教育や居場所作りに尽力している。だが、自身は兵庫県出身で、元灘校の教諭。

福島に縁があったわけではない。そんな前川さんが灘校を辞めてまで福島に移住した思いと、現在の活動について伺った。

略歴1999年 東京大学教育学部を卒業、首都圏の学習塾へ就職
2004年 通信制大学で教員免許取得、灘中学校・高等学校で非常勤講師となる
2007年 灘中学校・高等学校で教諭となる
2014年 灘中学校・高等学校を退職、福島県福島市に引っ越し、一般社団法人ふくしま学びのネットワーク立ち上げ
2015年 ダイバーシティふくしま共同代表
2018年 福島大学総合教育研究センター特任准教授
阪神・淡路大震災後、恩師から教えられた「学んだことは壊れない」

福島に住んで5年目を迎える前川さん。2014年に立ち上げた一般社団法人「ふくしま学びのネットワーク」を通じて、福島の高校生の学習をサポートしている。活動の柱のひとつは高校生向けの無料セミナー「夢をかなえる勉強法」の開催。灘校教諭時代の先輩で中高生向けの英語教材を多数手がける木村達哉先生や予備校の人気講師らの協力で、英語、国語、数学の講義を行う。また、2018年4月からは福島大学で教鞭をとっている。「ふくしま未来学」の「むらの大学」という授業を担当し、学生らとともに地元の声を聞くフィールドワークを進めている。こうして福島で活動の場を少しずつ増やしてきた前川さんだが、自身は兵庫出身。福島とはもともと縁があったわけではなかった。前川さんと福島をつないだものは、2つの震災だった。

1995年、前川さんが灘高等学校3年生のときに阪神・淡路大震災にあった。センター試験の2日後のことで、次の日から学校では二次試験対策の授業が始まる、というタイミングだった。幸い家族は無事だったが、両親が営んでいた喫茶店は半壊。家庭の経済状況を考えると、「自分が大学に進学してよいのか」と思いが揺れた。そんな中、担任の先生から「こんなときこそ勉強するんやで」と声をかけられた。「正直なところ、こんな大変なときに勉強なんてできないよ、と思いました。けれども先生は『形あるものは壊れるけれど学んだことは壊れない』と。その言葉にハッとさせられました」

塾講師から「子どもたちのための教育」に邁進するため、灘校教師へ

恩師の支えもあり、無事に第一志望の大学に合格。塾のアルバイトを始めたところ、教えることが楽しくて夢中になり、卒業後はそのままアルバイト先の塾に就職、4年間勤めることになる。

前川さんは塾の生徒とのやりとりで忘れられないエピソードがあるという。「実は学生時代、震災の影響もあったのかもしれませんが、かなり精神状態が悪い時期がありました。そんなとき、いつものように塾に顔を出すと、中学生の男子生徒2人がそばにやってきたんです。僕の暗い表情に気がついたのか、『先生、疲れた顔してるね』なんて声をかけて、マシュマロをくれて。そして『俺、先生の授業、わかりやすくて好きだよ』と言ってくれたんです」

この小さな出来事が、前川さんにとって、大きな気付きとなった。「そうか、自分を待ってくれる生徒たちがいる。僕はこういう子どもたちのために生きればいいんだ、と思えるようになりました」。これがきっかけで、前向きな気持ちになり、立ち直ることができた。今でも、迷ったり、諦めてしまいそうなときは、この出来事を思い出す。「人の幸せのために生きる、というときれいごとのように聞こえますが、僕にとっては『自分のため』と思うより『これをやることで多くの人を幸せにできる』と思うほうが、生きやすいのです」

ただ、塾は企業である以上、利益も追求しなければならない。あくまで教育を優先させたい自分の方向性とのズレを感じるようになった。家庭の事情もあり、26歳で退職、実家へ戻った。それから、学校の先生なら腰を据えて教育に向き合えると考え、通信制大学で教員免許を取得。母校で教育実習を行った。するとその数カ月後、日本史の非常勤講師のポストに空きが出て、声がかかった。「『あの、教育実習に来てたやつ、暇やろ』って」。こうして27歳で灘中学・高等学校の非常勤講師となり、3年後には正教員となった。

東日本大震災をきっかけに見つめ直した自らの役割

灘校の教員となり、クラス担任も務めながら充実した毎日を過ごしていた2011年、東日本大震災が発生した。自身の被災体験がよみがえるようで、「何かしなければ」という思いを抱えながら仕事に集中できない日々が続いた。そして8月に同僚と泥かきのボランティアとして釜石市を訪ね、唖然とした。「震災から5カ月経っていたので、もう少しきれいになっていると思っていたのですが、津波の被害は甚大でした」

生徒たちに被災地の話をすると、「自分たちも何か力になりたい」という声が上がった。阪神・淡路大震災から16年。当時生まれた彼らがちょうど高校生になる年だという巡り合わせにも後押しされ、2012年3月の春休み、8人の生徒を連れて1回目のボランティアツアーを実施、宮城県山元町を訪れた。その際、灘校の後輩にあたる医師が支援のため滞在していた福島県相馬市も訪問。相馬市の高校の先生と親しくなり、生徒同士も友達に。自然とまた会いたいという気持ちが生まれ、灘校と福島の高校との交流が始まった。

前川さんは引率係として福島へ同行しながら、自らの被災経験を思い出していた。そして、恩師の「学んだことは壊れない。今こそ学ぶんだ」という言葉を、今度は自分が子どもたちに伝える番なのではという思いを持つようになった。一方で、福島がどんどん好きにもなっていったという。「テレビで報じられないような、驚くようなことがたくさんありました。でも、絶望せずに『再生しよう』と必死で活動しているかっこいい大人たちがいました」。そんな彼らに憧れて、一緒に仕事をしたい、と思うようになっていった。

福島への思いが大きくなり、前川さんは移住を決意する。中学1年から担任していた学年が高校3年生になり、卒業を迎える年だった。「初めて担任した学年だったということもあり、本当にかわいい生徒たちでした。次に担任する生徒を同じだけかわいいと思える自信がなくなるぐらい(笑)。日本史はもちろん、自分が伝えられることは全部伝えた。最後に伝えられることがあるとしたら“生き方”かな、という気持ちもあって、チャレンジを決断しました」

灘校の生徒たちは「レールから外れずに生きていける子どもたち」だと話す前川さん。「でも、こんな生き方もありなんだよ、と身をもって伝えたいと思いました」。こうして2014年の春、無事に生徒たちを送り出した前川さんは37歳で灘校を退職、福島に移住した。

初めて担任した学年の卒業生たちと。

福島の学生たちの「人の役に立ちたい」思いを支援

移住後は、福島県の高校生の学びを支援する一般社団法人「ふくしま学びのネットワーク」を立ち上げた。収入は1/5に減ってしまい、東京大学大学院で特任研究員を務めたり、講演や執筆をしたりするなどして、なんとかつないできた。経済的な理由から、福島での活動を続けられなくなる可能性もあったものの、「お金のことはどうにかなるだろうと思っていました」と前川さん。活動の場を増やすにつれ経済的にも徐々に安定し、現在では、この先も続けられる見通しが立ったという。

移住後から続けている高校生向け無料セミナー「夢をかなえる勉強法」は、この7月には第11回を開催し、200名弱の高校生が集まった。
福島の子どもたちは、震災を通じて「多くの人に支えてもらった」という実感を強く持っているのだという。そのため、「今度は自分がだれかの役に立ちたい」との思いが強いという。そんな彼らには「勉強は“自分のため”だけではなく“人のため”でもある。勉強して、実力をつけて、だれかを支えられる自分になろう」というメッセージを、セミナーを通して伝えている。

2018年4月、福島大学の特任准教授の職を得て、現在は福島大学総合教育研究センターで「ふくしま未来学」の「むらの大学」という授業を担当。「ふくしま未来学」とは原子力災害の経験を踏まえ地域課題を実践的に学ぶカリキュラムで、前川さんは学生たちと南相馬市を訪れ、復興住宅の住民、酪農家、農家、社会起業家などから話を聞くフィールドワークを行っている。「学生たちからは、『福島でしか学べないことを学ぶんだ』という思いを感じます」

自身が阪神・淡路大震災を被災した直後、恩師からかけられた「形あるものは壊れるが学んだことは壊れない、今こそ学ぶんだ」という言葉。前川さんは当時、大きな被害を受けた故郷の街を目の当たりにしながら“学ぶことの意義”を心に刻んだ。そして今、恩師の言葉を自分が伝える立場となり、福島に集う「かっこいい大人たち」とともに福島の再生に尽力する日々。毎日やりがいと幸せを感じている。

「ふくしま未来学」の5年間をまとめたパンフレット。

 

「むらの大学」という授業で行う、南相馬市でのフィールドワーク。

 

前川さんが運営に関わるコミュニティスペース「よりみち」のパンフレット。「なんとなく居場所がない」と感じる10代から20代の人に、自由に過ごせる場所を提供している。


プロフィール

1977年兵庫県出身。社会人経験を経て改めて「学びたい気持ち」が大きくなり、灘校の非常勤講師だった2005年に京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程に入学。ジェンダー格差、性的マイノリティーへの偏見を学問的に掘り下げたいと、ジェンダー・セクシュアリティの社会史の研究に取り組んだ。2012年に同研究科博士後期課程を単位取得退学。

取材・文・編集 REGION
写真 高梨光司

By |2018-08-22T11:49:33+00:00August 11th, 2018|Categories: Interview|0 Comments

Leave A Comment

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.