//なぜ日本人はアメリカのコメディで笑えないのか?浮かび上がってきた2つの理由

なぜ日本人はアメリカのコメディで笑えないのか?浮かび上がってきた2つの理由

皆さんは、アメリカのコメディドラマ『フルハウス』や『フレンズ』などを観て、「笑いどころが良く分からない」「なぜ今のタイミングで観客の笑い声が入るのかわからない」といった状況に陥ったことはないでしょうか?

いったい、なぜ笑えないのか? 自分の「お笑い偏差値」が足りないのか、それともアメリカのコメディのレベルが高すぎて、日本に暮らす人にとっては難解すぎるのか……。「ブラックジョーク」すぎて、笑っていいのかどうか、わからないこともあるかもしれません。けれどもこれには、大きく2つの理由が挙げられるのです。今回は、日本とアメリカの笑いの文化の違いについて真剣に考えてみましょう。

コンテクストの壁による要因

コンテクスト(文脈)とは、その言葉が直接持つ意味とは別に、共通意識として付加されている情報のことです。

たとえば、「大阪のおばちゃん」という言葉が指す意味は、直接的には「大阪在住の女性」という意味しか持ちませんが、さらにそのイメージから「元気で押しが強く、おしゃべりでよく笑う」といった情報も伝わりますよね。

けれども外国人に「大阪のおばちゃん」と伝えても、文字通り「大阪在住の女性」という意味しか持たず、それ以外の情報は伝わらないでしょう。

このように、多かれ少なかれ、すべての国がそれぞれ異なるコンテクストを持っていると言われています。
そして日本の笑いはこのコンテクストと非常に密接な関係にあると言えます。

「あるあるネタ」は当然ながら、コンテクストを共感している者同士だから笑えるのです。しかも、日本という国は使用する言葉も一つしかなく、みんなとてもよく似た文化的背景を持つ国民でもあります。

世界的に見ても、日本という国はこのコンテクストの量が非常に多い「ハイ・コンテクスト」の国だと言われています。

そんな日本のお笑いはこのコンテクストを存分に活用したものになっています。
特に日本人が大好きな「あるあるネタ」はまさにその象徴とも言えます。あるあるネタは当然ながら、コンテクストを共有したもの同士だからこそ笑えるのです。日本のお笑いは言わば、「コンテクスト依存」の構図になるのです。

そのため、お笑いも非常に多くのコンテクストを含むようになり、むしろコンテクストの量が多いものほど、高度なお笑いとして評価される傾向にあるのです。

一方、アメリカは一般的に、日本よりもコンテクスト度が低いと言われています。さまざまな人種やバックボーンを持ち、異なる母国語を持つ人々が住むなかで、当然、お笑いも「コンテクスト」に依存しにくい構図となるはずです。

日本とは逆に、大衆に受け入れられるためには、コンテクスト依存から脱却していく必要があります。
そのため、日本とアメリカのお笑いは180度違うものになるのです。

笑いのあり方による要因

アメリカ出身の芸人で、ハーバード大学卒業の「パックンマックン」のパックンことパトリック・ハーラン氏は、
日本外国特派員協会での会見「Pakkun (Patrick Harlan): Through the Eye’s of “a Foreign TV Personality”」において、以下のように述べています。

Specifically in the America we have three basic types of Comedy, three basic sources of Comedy. “there’s political” “there’s sexual” and “there’s redneck”.
(アメリカのお笑いには3つの基本形があります。それは「政治的なネタ」「性的なネタ」そして「田舎者のネタ」です。)

アメリカのスタンダップコメディやバラエティ番組を観てみると、ネタにする話題にはある傾向があることに気づきます。それは、社会風刺的に政治や経済を笑いにしたり、下ネタで特定の人物をからかったり、田舎者を自嘲的に笑いにしたりするもの。
一方で、日本ではこのようなネタを笑いにするのは、舞台などオフラインの場は別として、テレビで扱われることはあまりないのではないでしょうか(田舎者を笑うようなネタは、かつてはあったかもしれませんが、最近はあまり見られなくなってきました)。

日本では政治や社会問題を笑いにすることはタブー視され、当たり障りのない話題や見た目の印象を自虐的に取りあげることで笑いにすることが多いですよね。

また、日本と比べると、アメリカの政治家はよく公衆の前でジョークを飛ばしています。前職のオバマ大統領も、公の場でウィットの効いたジョークを交えてスピーチをしていました。

アメリカでは、ジョークを交えることは、「ユーモアがある」と見なされ、親しみやすい人柄に見せる重要なテクニックです。
日本では、逆に、改まった場でジョークを飛ばそうものなら、不謹慎・不真面目などと捉えられる危険性が高いのではないでしょうか。

いわば、日本人にとっての笑いとは「単なる娯楽」「バカげたことをしている」と割り切られる性質の高いもので、「真面目な場」「かしこまった場」では、あまり受け入れられないようなもの。
一方で、アメリカ人にとっての笑いとは、「ユーモア」とか「ウィットに富んだ」という言葉で形容されるような「知性」を含んだもので、それが人の人間味を表しているのではないでしょうか。

結論

これらの2つの要因によって、日本人がアメリカのコメディで笑えないのは、ごく自然なことだと言えるのではないでしょうか。
アメリカの笑いのレベルと日本の笑いのレベルがどちらが高いか?などという議論が発生することもありますが、そもそも両者を比較すること自体、非常に難しいものなのかもしれません。
コンテクストに依存しないコメディの笑いを理解できるようになることが、グローバルパーソンへの第一歩になるのかもしれませんね。

By |2018-12-25T11:04:33+00:00December 18th, 2018|Categories: seeds|0 Comments

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